2006年12月16日 (土)

4.祈りと女

 気がつくと、教会の信者たちは項垂れた額の前に両の手を合わせ祈っていた。それぞれが口々に何かをつぶやいているが、どう聴いても俺には日本語には聞こえず、何を言っているか全くわからない。唯一、あちこちで不規則に発せられる「アーメン―」という言葉だけが俺にも真似できそうな単語だった。
 初めて耳にした―。
 これが異言というものなのか……。
 どう考えても俺には関係のない世界だった。
 だが、信者たちは真剣に祈っている。
 信者たちの心の中まではわかるはずもないが、純粋に祈りを捧げていることだけは無宗教のこんな俺にも感じとることができた。
 感じはできるが、馴染むことはできそうにない。
 あまりの居心地の悪さに俺はざっとあたりを見渡した。
 やはり……。
 やはり、俺だけが手も合わさず祈りもせず、動くことさえもできないでいた。まるで見知らぬ国で満員電車に押し込まれたようなものだった。
 完璧に浮いている……。
 いや、俺の存在など無視しているが如く、全員が祈りの言葉を次から次へとはき出していた。

 全く、なぜ俺はここに来てしまったのだろう。
 なんとなく後悔を感じながら、早くこのお祈りの時間が終わってくれと俺は信者たちとは違う意味で神に祈った―。

 そのとき、こめかみの奥の方に違和感を感じた。
 地下鉄のあの事件で頭を打ったのだろうか、軽い頭痛がし始めていた。
 きっと、入り交じる声のパワーが俺の頭痛を加速させているに違いない。
 俺は指でこめかみを押さえた。

 それにしても地下鉄でとった自分の行動が今でも信じられなかった。
 なぜあのとき俺は、反射的に線路へと飛び降りたのか―。
 自分の意志とは別のところで体が動いていた。確かに頭の中は迷っていたはずだ。線路へ向かって飛び降りながら泣きたいほど後悔していたのがその証拠だった。思い出しても身震いしてしまう。
 他人の為に何かをしてあげれるほど俺はそんなに人間ができていない。 自分の子供ならいざ知らず、ましてや他人の子供だ。どんなに勇気があったとしても、一瞬は躊躇するはずだ。無意識だったということだけではどうもしっくりこない。
 使命……。
 俺の体の中には自分の知らないヒーローが住んでいたのだろうか。だったとしても、あまり強くない、たよりにならない正義の味方だ。
 本能……。
 いや、何かに呼び込まれるように体が動いてしまったとしか言いようがない。
 光―。
 貴子―。
 満天の星……。
 いまだに夢だったとは思えないほど、頭の中に鮮明に焼きついている。
 頭が熱を帯びてきてこれ以上考えれそうにもない。

 ふと視線を感じ、俺は自分の席の横に目を走らせた。
 女と視線が合った―。
 俺と同じ列の端っこの席にいる女は、気のせいなのか俺に微笑みかけているようだ―。
 この女も、信者ではなさそうだった。
 俺と同じく知り合いに連れてこられたのだろう。
 いたずらっぽい目で、やはりこの俺を見て微かに笑っている。

 きれいな目だ。
 肩までの伸びた髪と白いTシャツにジーンズといったシンプルな服装、
 ボーイッシュな容姿ではあるが、なぜか女らしさを感じた。
 妙に吸い込まれるような感覚に陥った。
 少しフリーズしかけた俺は、慌てて笑顔を返して見せた。
 だが、慌てたせいで自分でもわかるくらい俺の頬はひきつっていた。
 俺が笑顔で応えたにもかかわらず、女は笑いをこらえられなくなったのか、急に下を向き肩を大きく揺らしだした。
 あきらかに笑いを堪えている。
 全く失礼な女だ……。
  だが、今は祈りの最中だ。どうすることもできず、ひきつった顔のまま俺はまた正面の牧師に向き直った。
 牧師は何か言いたげに俺を見ている。

 全くついていない一日だ―。
 朝、家を出る前に『モーニングテレビ』の星占いカウントダウンを観てくるべきだった。間違いなく、十二星座中、最悪の運勢だったに違いない。
 そんなことを思いながら、俺はなぜか女のことが気になり顔を正面に向けたまま横目で様子を窺ってみた。
 直視はできないが、まだ女の肩は揺れている―。
 ちくしょう―。
 小声で言いながらため息をついた。

 俺のため息が神様に伝わったのか、牧師の導きで祈りの時間はやっと終わりをむかえた―。

 「それではみなさん、賛美歌に移りましょう」牧師が言った。
 まだ終わりというわけにはいかないらしい―。