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2006年12月 8日 (金)

1.満天の星 ~2.

1 

深い霧がたちこめている。
 冷気が体にまとわりついているせいか体の動きが鈍かった。
 俺は今、揺れる小舟の上に横たわっていた。
 ここは海の上なのだろうか? 穏やかな波の振幅からすると湖の上かもしれなかった。
 静かだ―。
 風の音も舟が軋む音も何も聞こえない。鳥や魚の躍動する音も聞こえてはこなかった。
 寒さをのぞけば、妙に心が落ち着く気がした。聖なる地とでも言おうか、時間がゆったりと流れていく癒しの空間のようだった。
 とにかく起きあがらねばと俺は腹筋に力を入れた。しかし、思うように体が動かない。軽い目眩と倦怠感の中、俺はどうしてここにいるのかを考えてみた。
 記憶が曖昧で思考がなかなか前に進まない。
 今日は何月何日だったろう? 
 ふと、霧の間から淡い光が漏れたような気がした。
 光かどうかもわからない小さな動き。
 光―。
 そういえば光の中に包まれていた気がする。眩しい光だった。すべてを包み込むこの世のものとは思えないほどの光―。
 そうだ―。
 光の中で誰かが俺に話しかけていた。確か女の声ではなかったか……。
 うまく記憶がつながらない。
 寒さを凌ごうと俺は両腕を組むようにして体を指すってみた。なぜか温もりを感じる。柔らかな温もりだ。幼児を抱いた時のように心を和ませる人肌の温度……。
 だめだ―。
 何も思い出せない……。
 そうだ―。
 こういうときは、声を出すのだ。自分で自分を呼び覚ますのだ。金縛りを解くように大声で叫ぶか? 
 いや、歌おう。
 歌うのだ。
 苦しいとき、おれはいつでもひとりごとの代わりに歌ったものだった。学校でいじめられたとき、失恋したとき、理不尽な叱責をうけたとき、親父が死んだとき、幾多の挫折を味わったとき、そしてあの時も―。
 つらいときは涙を流さず、俺は歌を歌って自分を勇気づけてきた。男は涙を見せてはいけない。親父の口癖だった。

 なぜだか坂本九の歌を口ずさんだ―。

  上を向いて 歩こう
 涙が こぼれないように
 思い出す 春の日
 一人ぽっちの夜

 静かな空間に俺の声だけがこだまとなって帰ってくる。まるで一人輪唱のように―。

 上を向いて歩こう
 にじんだ 星をかぞえて
 思い出す 夏の日
 一人ぽっちの夜

 俺が小さい頃はまだ星がたくさん見えていた。銭湯へ行った帰り、両親に手をつながれ星空を見上げて歌いながら歩いたときを思い出す。

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 幸せはいつもそばにあったはずだった。そのはずだった―。

 上を向いて 歩こう
 涙が こぼれないように
 泣きながら 歩く
 一人ぽっちの夜

 俺の声の後から俺の歌声が追いかけてくる……。

「……! 」

 突然、俺は耳を疑った。
 声が違う。俺の声ではなかった。
 反響して帰ってくる小さな声は、俺のそれではなかった。
 
 女の声だ―。

 聞き覚えのある歌声だった―。
 まさか、そんなことがあるはずはない。
 この声は二度と聞こえてくるはずのない声だった。
 だが、聞こえてくるこの声は……。
 
 貴子の声だった。
 最愛の女。
 三年前に死んでしまった、俺の妻。
 信じることはできなかった。
 なのに、俺は叫んでいた。

「貴子か? 貴子なのか? 返事をしてくれ。どこにいる?」
 しかし、叫んだ俺の声が反響するだけでまた何も聞こえなくなった。

「貴子、返事をしてくれ! たのむ! もう一度姿を見せてくれ!」

 むなしく俺の声が響いた。

 すべては錯覚だ。そうに決まっている。弱い俺の心が作り出した幻想なのだ。いまここにいるこの空間も俺が作り出した幻想なのだ。
 歌ったおかげで頭が冴えてきた。
 笑えてきた。
 俺は頭がおかしくなってしまったのかもしれない。おかしくなって、自分の中に自分だけの世界を創りあげてしまったのだ。誰も入ってくることができない世界を―。
 俺は声をあげて笑った。おかしいわけではなかった。ただ、笑わずにはいられなかった。
 数秒後、視界が広がりはじめた。少しずつ霧が晴れていく。
 夜だった。夜だというのにあたりが明るくなっていく。
 満天の星空だった―。
 俺の心は星空に吸い込まれそうだった。
 見上げた空に放物線を描いて星が流れた。
 俺は瞬間的に願いごとを心の中で唱えた。毎日願い続けていることを……。
 
 俺は目を瞑った―。

 目をあけたとき、星空は消えていた―。
 

「大丈夫ですか? 大丈夫ですか? 」
 俺の体を揺すりながら誰かが大声で俺に話しかけている。
「今、救急車を呼んでいます。わかりますか? 大丈夫ですか? 聞こえていますか? 」騒々しく早口で何度も大丈夫かを繰り返す男の声。
 騒々しい男は帽子をかぶっていた。
 俺はコンクリートの上に寝ていた。
「目をあけたぞ!」帽子の男とは違う誰かが叫ぶ。
「大丈夫ですか? ここがどこかわかりますか?」
そう言われても俺はまだ自分がどこにいるのかよくわからなかった。
「怪我はありませんか? 」
 帽子の男は駅員だった。
 「間もなく二番ホームに列車が参ります。足下の白線までお下がりください。間もなく……」
 アナウンスが入った。
 アナウンスではじめて、俺はやっと自分がどこにいるのかを思い出した。確か地下鉄に乗ろうとしていたのだった。

「大丈夫だ……」

 よくわからなかったが、特に苦痛はなかったので俺は言った。
「良かった。もうすぐ救急車が来ますから、そのまま寝ていてください」
駅員はほっとした様子で俺に言った。
「救急車……?」俺は言った。
「そうです、もうすぐ来ますから―。頭は痛くありませんか? お名前と年齢を教えてください。」
「中野祐二―。三十八歳だ……。俺は怪我をしたのか? 」
「わかりません。ですが、ホームに落ちた子供を助けられて、いきなり線路の上に倒れられたのです。そこへ列車が入ってきて……。 正直、列車に撥ねられて死んだかと思いました。奇跡的に、ホームと線路の間に倒れたので助かったのですよ。多分、出血もされていないし、大丈夫だと思いますが、しばらく意識を失われていたのでとにかく病院に行きましょう。」
「子供……? 悪いが俺を起こしてくれないか」
「わかりました」駅員は言って、俺の両脇を抱きかかえた。
 少しばかり体が軋む。
 起きあがった俺の目の前に、心配そうに俺を見つめる女がいた。女はしっかりと子供の手を握っていた。
 その女は急に泣き崩れ、俺に言った。
「ありがとうございました。ありがとうございました。」
泣きながら礼を言われて俺はとまどった。
「えっと……、俺がその子を助けたのか? 」
「本当にありがとうございました。おかげさまでアツシは無事でした。本当に、本当になんとお礼を言っていいのかわかりませんが、助けて頂いて―が……た……こ……は……ん………」
 列車が入ってきたせいで、女の声がかき消された。女の口はまだ動いている。
 母に手を握られた無邪気な目が俺を見ている。
 俺はようやくここでの出来事を思い出した。
 この子がホームから落ちたのだった。あせった俺は考える間もなく線路にジャンプし、そこに轟音とともに列車が入ってきて、俺は死を覚悟した―。
 そこまでは覚えていた。だが、それ以上はよく覚えていない。ただ貴子の声だけが、今も頭の中に響いている。結局、話をすることも会うこともできなかった。夢とはいえ、せめて顔ぐらい見たかった……。

「俺は大丈夫だ」そう言って俺はゆっくりと立ち上がった。
 少しばかり体がだるいが特に痛みもなく、意識もはっきりとしていた。
 救急車に乗るのは二度とごめんだった。
 到着した列車から多くの人が降りてくる。
 腕時計に目をやると、もう午後四時になろうとしていた。

 まずい―。
 約束があった。
 大事な約束だ―。

 俺は鞄をつかみ、アツシの母親に言った。
「どんなときでも子供から目を離すな。いかなるときもだ。」
 言って、俺は走った。
「待ってください。救急車で病院に―」
 駅員が俺に言ったが、そんな暇はもうない。
「大丈夫だ。騒がせたな。」
 振り向きざまに言いながら、俺は列車に飛び乗った。すぐにドアが閉まる。
 列車の扉越しにアツシとその母親が俺を見つめている。
 きまりが悪くなった俺は、とりあえず笑顔をつくってみた。しかし、窓に映る俺の顔はぎこちなかった。
 早く動いてくれと念じたとき、列車が動き出した。
 ひとあし違いで救命士がホームに到着したようだ。
「間一髪だった……」思わず独り言がでた。
 それにしても疲れた―。
 急がなくては―。

 このとき俺はまだ気づいてはいなかった。
 不思議な力が俺を支配し始めていたことを―。

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